2015年9月の歌舞伎座夜の部は
「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の通し狂言です。

通しなので、「花水橋」「竹の間」「御殿」「床下」「対決・刃傷」と
時系列に並びます。
単独でよくかかるのは「御殿」と「床下」です。

「御殿」の前段となる「竹の間」
八汐(中村歌六)が幼い主君・鶴千代を守ろうとする乳母・政岡(坂東玉三郎)を
追い落とそうと難癖をつける場面です。
八汐は女性の役ですが、女方ではなく立役が憎々しく務めるのがならい。

わかりづらいのが、八汐とともに鶴千代を訪問する沖の井の立ち位置です。
八汐の手下なのか、違うのか、ビギナーにはなかなか判断がつきません。
今回は菊之助が沖の井の清廉潔白な人物の輪郭をくっきりと表し、
表立ってはどちらの側にもつかないけれど、八汐の言動のほころびを巧みに突き、
「間違ったことはさせない」という毅然とした態度を貫いて、この場の意味がよく理解できました。
この場で玉三郎が着用している打掛がとても美しいので、そこにも注目してください。

「御殿」では
前半に「飯炊き(ままたき)」といって、
毒を盛られぬよう自分でご飯を炊き上げるシーンがついています。
お米をとぐところから何から全部やります。
もちろん、「エア飯炊き」ですが、手順を省かないので時間がかかる。
そこがまどろっこしい、というむきもありますが、
朝から何も食べていない幼い2人がまだかまだかと炊き上がるのを待つしぐさが健気ですし、
「にぎにぎ」を食べる二人の姿は本当にほっこりします。
先日、「竹の間」→「御殿」(飯炊きなし)を見たら、子どもたちはずっと何も食べられていないようで
とても可哀そうになりました。
後半が悲劇なだけに、ここは落差を感じるためにも重要な場面なのではないかと思います。

その後半は、
乳母政岡が、主君の子である鶴千代を守ることを優先して
自分の子が殺されようとするのをみじろぎもせず見つめるところがハイライトです。
たった一人になったときにようやく母の顔に戻り、
鶴千代のために、進んで毒を食らい幼いながら毒見役をまっとうしたわが子に
「でかしゃった、でかしゃった」と声をかけながら
つらい涙を流します。
母の目の前でわざと子を殺す八汐も残酷ですが、
位も上なら悪者としても上をいく、栄御前もお上品だが食えないヤツ。
上村吉弥が能面を思わせる得体の知れぬ無表情で好演しました。

「また子どもを見殺しにする話ですか」
「それも今度は母親とは。鬼母か!」
などと一蹴するのは本当にもったいない!
ありえない仕掛けの中に現代にも通じるリアリティが溢れています。

政岡が鶴千代や千松にかける言葉には
一つひとつに母として乳母としての愛情が滲み出ていますし、
政争に巻き込まれた幼い命を守るため、必死になる様子には手に汗握ります。
前半は「〇〇夫人」が夫の権力をかさに着るみっともなさが浮き彫りになり、
溜飲が下がる場面もあり。
不条理な世間の中でいかに生きるか、
長いものに巻かれ自分を見失うまいと、必死に生きる人たちの物語は、
現代の私たちにもいろいろなことを感じさせてくれます。

女同士による勢力代理戦争である「竹の間」「御殿」に対し、
「床下」「対決・刃傷」は武士の世界が繰り広げられます。

「床下」は忍術使いがネズミになって証拠の連判状を持ち去るという、
幻想的・様式的・奇想天外な場面です。

ネズミを踏みつけて出てくる男之助(尾上松緑)は正義の味方、
そのネズミからドロンドロンと変化して正体を現す悪者が仁木弾正(中村吉右衛門)。
仁木弾正が花道を退場する場面で「宙のり」を使うバージョンもありますが、
今回は、暗闇の中、ろうそくの光が妖しくゆれる中での退場です。
吉右衛門の弾正が、息を呑むほどの存在感で、
何のセリフもなくただ花道を歩くだけなのに、圧倒されます。
あまりに大物のために気勢をそがれ、立ちすくんでつかまえそこなう、みたいな感じが
よく出ていました。

これだけの仁木弾正の「床下」はそうそう見ることができません。
たっぷり味わうためには、1階後方花道寄りのお席がおすすめですが、
2階3階からも、
ろうそくの明かりがもたらす弾正の影が、次第次第に大きく幕に投影され
まことに効果的に仁木弾正の残像をもたらします。

「対決・刃傷」は一種の「大岡裁き」的な裁判もので、
細川勝元による公正な裁判でハッピーエンド。
市川染五郎がすっきりとした勝元を演じ、
前半は悪者の八汐だった中村歌六が、この場では頼兼サイドの重鎮・外記左衛門を務めます。

濃密にして手堅い、
非常に素晴らしい舞台なので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。


(詳しいあらすじはこちらのサイトに出ています)