仲野マリの歌舞伎ビギナーズガイド

一度は観てみたい、でも敷居が高くてちょっと尻込み。 そんなあなたに歌舞伎の魅力をわかりやすくお伝えします。 古いからいい、ではなく現代に通じるものがあるからこそ 歌舞伎は400年を生き続けている。 今の私たち、とくに女性の視点を大切にお話をしていきます。

講座「女性の視点で読み直す歌舞伎」を
東京・東銀座のGINZA楽・学倶楽部で開いています。
歌舞伎座の隣りのビル。
窓から歌舞伎座のワクワクを感じながらのひとときをどうぞ!
これまでの講座内容については、http://www.gamzatti.com/archives/kabukilecture.html
GINZA楽・学倶楽部についてはhttp://ginza-rakugaku.com/をご覧ください。

カテゴリ: 日常の中の歌舞伎

新作歌舞伎が次々に誕生した2015年。

特にアニメでも有名な「ONE PIECE」が歌舞伎になったのは衝撃的でした。

かたや、「あらしのよるに」の原作は、狼のがぶと羊のめいの友情を描いた絵本。

「アニメや絵本を歌舞伎にするなんて、画期的!」と思われた方が多いかもしれませんが、

実は歌舞伎は昔から、このようなことをやってきたのです。

詳しくはこちらをどうぞ!

http://www.eigeki.com/special/column/kabukisaika_n10

歌舞伎の世界では、
坂東玉三郎や片岡愛之助など、
芸養子、そして本格的な養子となるケースがあります。
中村吉右衛門も、
松本幸四郎と兄弟ですが、
高麗屋に嫁いだ母が実家の播磨屋を継がせるため、
祖父の養子に出したのです。

このような特殊な世界でなくても、
世の中には
生みの親以外の親を持つ人はけっこういるのではないでしょうか。

生さぬ仲といえばシンデレラを代表とする「継子いじめ」が
物語の定番ではありますが、
実際はお互いに一生懸命愛そう、愛されようとする方が多いはず。
ただその一方で、
育ての親にどんなに愛されても、
養子には幾分の遠慮がついてまわるもの。
母親を早く亡くし継母に育てられた私の友人(男性)は、
小学生の頃から下着と靴下は自分で洗っていたといいます。



苅屋姫(中村壱太郎)は、菅丞相(片岡仁左衛門)の養女です。
桜丸夫婦の手引きで、
加茂堤で17歳の斎世親王と牛車の中で密会するという
世間知らずだからこその大胆行動が、
完全無比の菅丞相追い落としのための口実となり、
図らずも養父を流罪、お家断絶の危機にさらしてしまいます。

養父に合わせる顔のない苅屋姫は、
養父に一目会いたい、会って詫びたいと思いながらも
京の都の菅原邸には戻らず、
生みの親がいる河内の国の実家に身を寄せます。

「お母さん、どうしよう…」

実母は菅丞相の伯母・覚寿(片岡秀太郎)。
かくしゃくとした老女は、実の娘の犯した大失態を許しません。
養子とは、まず家の存続が最大の目的。
それなのに、養子に出した娘が、
甥の家を潰す原因になってしまった。
それも天下の右大臣の菅丞相の家を…。

申し訳が立たず苅屋姫を受け入れない実母覚寿に対し、
姉・立田の前(中村芝雀)は優しく妹をかくまい、なにくれとなく面倒をみます。
ところがその立田の前の夫は、
立身出世を望み、
流罪が決まった菅丞相を捨てて藤原時平に加担。
都から流される途中、汐待ちの間に覚寿の屋敷を訪れた菅丞相の
奪取暗殺計画を謀ります。
それを知った立田の前は、
何とか夫を思いとどまらせようとするのですが…。

「道明寺」とは、そんな物語です。

一番の見どころは、菅丞相を形どった「木彫りの人形」が、
菅丞相の代わりとなって立ち現れるところを、
人間である片岡仁左衛門がどう演じるか。

もともと「人形浄瑠璃」が原作なので、
人形ならなんでもないところですが、
歌舞伎では生身の人間が演じるわけで、
舞台上の登場人物と同じように観客も騙されるような、
高度な演技が求められます。

感情を持たない木偶人形と、
感情を押し殺した清廉かつ冷徹な政治家の顔と、
養女・苅屋姫を愛しみ別れに涙する養父の顔と、
様々な顔を見せ、
すべてを「菅丞相」という一つの人格に統合し、
さらに、やがて「天神様」となる人の神々しさを醸す。

現在、
この役ができるのは片岡仁左衛門だけ、と誰もが思っています。
彼が演じられなくなったら、
「道明寺」はもう上演できなくなるのでは?と危惧するほどに。

そんな今月昼の部。
千秋楽まであと数日です。
幕見も盛況で連日立ち見が出ています。
お時間が許せば、ぜひこの機会をお見逃しなく!

どちらかというと動きの少ない演目ですが、
緊張の続く中、
行方不明の立田の前探索で大活躍する奴宅内役の愛之助が、
人形浄瑠璃のチャリ場(コミカルな場面)の雰囲気をよく出して好演。
観客の重い空気をほぐしてくれます。

昼の「筆法伝授」、夜の「寺子屋」も大好きです!
これについては、また日を改めて。

「鳴神」も、「矢の根」と同じく歌舞伎十八番の1つです。
ですので、お上人のお話ですが、最後は「ぶっかえり」といって、
衣装がぱっと変わり、不動明王のような顔つきになります。
(衣装の早変わりに関しては、歌舞伎や日本舞踊の舞台では歴史があります。
最近のファッションショーなどで、同じような手法が取り入れられていました。)

ただ、
「矢の根」と違って、こちらはストーリーがある。
竜神を封印している鳴神上人が、
自分を籠絡して封印を解けと命じられて派遣された
雲絶間姫(くものたえまひめ)の色香に惑わされてしまうというもの。

見どころは
具合の悪くなった美女を介抱するため、
坊さんが女性の着物の袷から手を入れて
『ここか?ここか?』と胸などを揉みまくるところ
、です。

エロです。

その上、この美女、
「坊さんをオトして来い!」と命令されている女スパイ!


歌舞伎、荒事、坊さん、エロ。

歌舞伎とは「かぶく」こと。
建て前や常識なんか、クソくらえ!
坊さんだって女や酒には弱いだろ。それが人間でしょ。
「おい坊主、抹香臭い顔してオレに説教するな!」っていう
庶民の日ごろの気持ちの代弁です。
アナーキーで、艶笑談。
人気が出るはずです。

ただ、
単なる「庶民のうっぷん晴らしとして偉い人を揶揄する」だけには終わりません。
お上人様、
これまでは本当に真面目だったんです。
そんなお上人様が、酒と女淫に迷い始め、
ついには煩悩とともに生きる世俗を選び
「破戒だ破戒だ!」と叫ぶ、
そこに
「坊さんといっても人間」と共感させるカタルシスがあります。

そこが私は好きなのです、が…。

雲絶間姫の中村米吉は、美しいし堂々としていますが、
正直、エロすぎではないかと思いました。
上人の弟子2人に亡き夫との昔話をしながら、
「川を渡った時に裾をからげ・・・」みたいにスネを見せたりします。
そこが、最初から流し目チックっていうか、
「それそれ、裾あげますよ~、見せますからね~!」みたいに誘っていて、
お姫様というより、お姫様に化けた遊女みたいになってしまっていた。
ラスト近く、
「(上人を誘惑したのは)本心じゃなく、勅命だ(天皇に命令された)から許して」と謝るところ、
ここに説得力がなくなってしまっているのです。
前半はもうちょっとお上品にされたほうがよいかと思いました。
たしかに「わざと誘惑」に来てはいるんだけど、
世の中の悦楽を遮断して修行している坊さんたちにとって、
美女はそこにいるだけでまぶしいわけで、
そんな色目なんか使わなくても十分フラフラなはずでしょ。

女性にもあるじゃないですか。
若いイケメンがふいに上半身裸になっちゃうと、
別に他意もなければ「誘われている」わけでないのに、
なんかドキドキしてまぶしくて、目のやり場に困るような・・・
あんなサワヤカ系の「図らずも」のお色気がベースにあって、
プラスちょこっと「わざと」が欲しいところです。

松也の鳴神上人も同じことで、
高僧としての器が感じられませんでした。
姫が来る前から煩悩ありまくりの、
あるいは、煩悩を断ち切るために仏門に入ったばかり、みたいな
「いまだ悟らず」な状態に見えてしまった。

鳴神上人は、
朝廷が約束を破ったことに立腹して竜神を封じ込め、
世界中を日照りにしてしまうほどの力があります。
人間でありながら、すでに霊的な存在。

弟子たちを相手に姫がする物語を
聞くともなしに聞くうちにどんどん引き込まれていくところも、
最初は本当に「介抱しなきゃと思い」胸をさすり始めたところも、
ちょっとお籠りしていたふつうの男ではなく、
「あの膨らみは一体何?」「女性ってどんなものだったっけ」っていうくらい、
世俗と断絶した存在として、
それこそ「邪気のない」感じを大きく出してほしかった。

そうでなくては、
「手が何かにさわった」というくだりが
家庭教師相手の「青い体験」並みにしか見えない。

最後ぶっかえって六方踏んで、花道を駆けるところも、
「だましたなー!」の相手が姫であって、
朝廷という大きい相手、ひいては日本全体をゆるがそうという
恐ろしさには欠けました。

バレエなどでもそうですが、
「そこに存在するだけで場を支配するオーラ」というものは
そうすぐに獲得できるものではありません。
何事も、最初は小さい一歩から。
次回に期待です。

三月花形歌舞伎について、詳細はこちらをどうぞ。

三月花形歌舞伎、夜の部の最初は
「弁天娘女男白浪(べんてんむすめ・おめのしらなみ)」
いわゆる「白浪五人男」です。

このお話は本来長いストーリーですが、
通しで演じられることはほとんどなく、
大体「浜松屋見世先」と「稲瀬川勢揃い」の2場面が演じられます。
こうした「部分的に上演する」形態を「見取り狂言」(みどりきょうげん)といいます。

まずは、前半、
イケメン泥棒・弁天小僧菊之助が娘姿に化け、仲間の南郷力丸も連れに扮し、
2人で呉服屋(浜松屋)に乗り込みます。

いいとこのお嬢さんが品定めをしている風を装い、
万引きしたように見せかけてわざと捕まり、
いわゆる「誤認逮捕」でどうしてくれる、とねじこんで、
評判を気にする大店から金をせしめようとするのです。

ところが店の奥から出てきた男から「お前は男だ」と見破られ、
観念して「そうだよ、男だよ! 泥棒だよ!」と開き直ります。
そして「なに、あんたがた、おれっちのこと知らないの?」とばかりに
「知らざあ言ってきかせやしょう!」
と自分の生い立ちや何で泥棒になったかをつらつら語るところが
河竹黙阿弥らしい七五調の名調子で、
聞かせどころとなっています。

後半の「稲瀬川勢揃い」は、
泥棒集団が追いつめられて、稲瀬川の川べりで捕り物が行われる、
という段ですが、
5人が揃いの傘を掲げて居並ぶところが非常に有名。
出は花道で5人並び、次に舞台に上がって、また並びます。

ここでも
「問われて名乗るのもおこがましいが」から始まる長台詞が聞きどころで、
5人それぞれが名を名乗り、ルーツを披露します。

こうした名乗りはおそらく
「やあやあ我こそは・・・」と名乗ってから戦う鎌倉武士あたりがルーツかと思いますが、
今もいわゆる「戦隊もの」の5人の名乗りにまで伝えられる
いわば日本の「闘う男」に欠かせない、伝統儀式(!)であります。

花道にいい男がずらっと並ぶ、ここはハイライトなので、
見逃したくない人は、花道が奥のほうまで見える席へ!
1階は問題ありませんけれど、
2階3階は見えにくいので要注意。
特に西側(下手、花道に近いほう)の2階、3階はまったく見えない可能性が高いので、
チケットの場所には本当に気をつけてください。

あと
歌舞伎に「実は」はつきもので、
弁天小僧は「実は」男、ですが、もう一つ、
弁天小僧を男だと見破る男も、
「実は」弁天小僧の仲間の「日本駄右衛門」なのです。
二重三重に店をだまし、
駄右衛門も謝礼をもらってみんなで山分け、
という、綿密に練られた大がかりなサギ!

いわば、
最初にオレオレ詐欺の電話をかけ、
次に「警察です。今、変な電話がありませんでしたか?」と
味方を装い安心させるような電話をかける手口ですね。

でも最初に申し上げたとおり、これは「見取り狂言」
全体の物語を通しではやらず、
全5回シリーズの連続ドラマを、
「いきなり最終回」あるいは
視聴率の高かった回だけ再放送するみたいなものなので、
再放送しない回に明らかになる関係が飛ばされます。

だから、
こうした伏線がつながっていないことがあります。
さっき、「お前男だろ」といって鬼の首とったようにしていた男が、
次に幕があがると
「問われて名乗るもおこがましいが・・・」って、
なんか泥棒たちと一緒に並んでいるよっていうフシギ。

なぜ「五人男」の中に
弁天小僧と南郷力丸のほかに日本駄右衛門も並ぶのか、
「?」マークが飛び交って舞台に集中できないことも。

でも、
そんな「なんで?」も含めて、
新しいものとの出会いは新鮮な刺激のはず。

こういうのを「理不尽」と斬って捨てては
歌舞伎はなかなか楽しめない。
何度も観ているうちに分かってくるし、
筋書(プログラム)も売っているし、
だまされたくない人は最初にストーリーを調べておいてくださいね。
(このブログもぜひ参考に!)

でも、
浜松屋の商人と同じく騙されてみるのも悪くない。
それが楽しいっていう考え方もあります。
あとから「そうか、そうだったのか」と思うのも
歌舞伎体験の一つと思ってください。
何事も「初めての体験」は1回限り。
フシギワールドに迷い込んで、登場人物と同じ目線で、
思いっきりジェットコースターストーリーに身を任せる…。
これ、エンタメの基本かもしれません。

さて、レビューに入ります。

今回の公演で一番期待していた「白浪五人男」でしたが、
弁天小僧菊之助を演じる尾上松也の声の調子が悪く、
そのために全体の印象がざらついてしまいました。

ただ、平成中村座で中村七之助が弁天小僧をやったときも、
かなり声がつぶれてしまっていました。
それだけ、同じ舞台で女と男を演じ分けるのは難しいということでしょうか。
松也は立ち役(男役)も女方もやる役者なので、
単体でやることは慣れているはずですから。

それにしても、
有名な演目というのは、ライバルが大先輩なので大変。
そして観客にとっても、
これまでベテランが当たり前のように演じているちょっとした仕草や間合いが
いかに積み重ねられた経験によって磨かれた技なのかを痛感する機会となります。

見え透いたこすっからいサギを働いて、
そのあとも開き直って金をせびり
その金の分け前をよこすのよこさないのといいながら去っていく、
そんな小悪党たちを主役にして、
その主役に観客を感情移入させるには、
「技」が要るのです。
その「技」が、松也や巳之助にはまだ備わっていなかった。

前述の七之助は、公演終盤で、見違えるほど素晴らしい演技を獲得しています。

そのときのレビューはこちら

松也も、1か月の公演の中で、自分の弁天小僧を見つけてもらいたいと思います。

三月花形歌舞伎についての詳細はこちらをご覧ください。

京都南座で公演中の三月花形歌舞伎に行ってまいりました。

何回かに分けてレビューを掲載いたします。
まずは昼の部冒頭の「矢の根」から。

これは市川團十郎歌舞伎十八番の1つです。
歌舞伎十八番の演目を、
市川團十郎家(=成田屋)以外の役者が演じるときは、
必ず成田屋さんのところに許可を得に行くしきたりとなっています。

「矢の根」は典型的な荒事(あらごと)です。
歌舞伎といえばあれ、という、赤い隈取(筋隈)。
かつらはドレッドヘアの各ドレッドをそれぞれ固めて立たせたような「車鬢(くるまびん)」。
そう、
今「スズキの軽」のCMに市川猿之助が荒事スタイルで出ていますが、
まさにあんな恰好です。

ビジュアルをイメージしていただいたところで、
もう一つ、
主人公の「曽我五郎」は、あの作品にもこの作品にも出てくる有名人!
富士の裾野で仇討をした曽我兄弟の弟のほうで、
喧嘩っ早く、乱暴、でも早くに親を亡くした悲しみがあって、
やんちゃで子供じみているが、
一方でまっすぐなところもあり、憎めないというのがキャラクターです。
スサノオ的、といえるかもしれません。

それにひきかえ兄の十郎は、
女方が務めることの多い、分別はあるけれどちょっとなよっとした男性。
あまり目立たないけど、世の中や分別をよく理解して、
結局次男の粗相をあやまったり尻拭いしたりする。
「お兄ちゃんはいつも優しいね」みたいな役回りです。
長男が優等生タイプ、次男は自由奔放、いたずらっ子だけど人気者、というのは、
いまも「あるある」の設定で、共感する人、多いのではないでしょうか。

ちょっと乱暴なたとえですが、
刑事ドラマ「相棒」の右京さん(水谷豊)が十郎で、
亀山さん(寺脇康文)が五郎、みたいな感じ。

そんなイメージで、
「矢の根」そのもののストーリーを見てみましょう。

ストーリーといっても、荒事の典型なので、筋は簡単です。

まず「曽我兄弟」が出る話は、必ずどこかで「敵討ち」がからみます。
これ、お約束。その上で…。

「矢の根」はお正月にちなんだお話です。

五郎はお年賀訪問を受け、「七福神」の絵をもらいます。
いい初夢を見ようと縁起のよいその絵を枕の下に敷いて寝ると、
兄の十郎が夢枕に立ち、
「敵の工藤佑経の館に捕えられているから救いにきて」と言って消えます。
目覚めた五郎、兄の一大事!とばかりに家を出ようとすると、
そこに大根を積んだ馬が通る。

亀山刑事が通りすがりの一般人のバイクをつかまえ、
それに乗って、逃走中の犯人を追う、みたいな感じで、
五郎は馬の背の大根をバサッと切って落とし、自分が乗ってしまいます。
馬士はもちろん大迷惑ですが、
五郎は「乱暴者だけど憎めない」キャラだから、観客も
「かーめーやーまー!」もとい「あーあ、ゴローちゃん、またー」と、
ここは眉をひそめず笑って楽しむところ。
五郎は馬に乗って花道を去っていきます。

この「馬に乗って去っていく」ところ、歌昇が本当に立派で、
きびきびとしてスピーディー。
馬の脚を演じた2人は大変だったと思いますが、
3人のチームワークがよく、本物のような動きでした。

荒事は無邪気な子どもの心で演じよ、と言います。
子ども=「無邪気」=邪気がない=神聖な存在で、
江戸の守り神としての成田屋が、「邪気を払う」のです。
乱暴なことが、ここでは逆に、「正義の味方」としての力になります。

歌昇の五郎は筋隈美しく、声は轟き演技が大きく
そうした「無邪気さ」と「恐ろしさ」を併せ持って
素晴らしかったと思います。

思わず、團十郎さんの舞台を思い出しました。

今回南座で一番の出来だと思います。

公演の詳細はこちらからどうぞ。

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