仲野マリの歌舞伎ビギナーズガイド

一度は観てみたい、でも敷居が高くてちょっと尻込み。 そんなあなたに歌舞伎の魅力をわかりやすくお伝えします。 古いからいい、ではなく現代に通じるものがあるからこそ 歌舞伎は400年を生き続けている。 今の私たち、とくに女性の視点を大切にお話をしていきます。

講座「女性の視点で読み直す歌舞伎」を
東京・東銀座のGINZA楽・学倶楽部で開いています。
歌舞伎座の隣りのビル。
窓から歌舞伎座のワクワクを感じながらのひとときをどうぞ!
これまでの講座内容については、http://www.gamzatti.com/archives/kabukilecture.html
GINZA楽・学倶楽部についてはhttp://ginza-rakugaku.com/をご覧ください。

カテゴリ:レビュー > 歌舞伎レビュー

中学生、高校生は、
歌舞伎俳優にとってはざまの季節です。
ふさわしい役も少なく、声変わりもあり、普通舞台から遠ざかります。
舞台からは遠ざかっても、稽古は続く。
このときどれくらい稽古に励むかで、のちに花開き、成る実の大きさが変わってくるものです。

そんな季節の中村鷹之資が勉強会の翔の会(8/2)で挑んだのは、
なんと、
これまでやったことのない女方の「藤娘」
歌舞伎ではなく能の「安宅」です。

父・中村富十郎はすでにありませんが、
鷹之資の周りにはたくさんの応援者がいて、
彼を支えています。
その支え方が、尋常ではないことが、この会でよくわかりました。
また、鷹之資もその尋常ではない厚情をよく理解し、
全身全霊で応えようとしています。

まずは「藤娘」。
能楽堂の橋掛かりに姿を現したときの可愛らしさ!
想像以上に似合っていました。
所作事は、上半身は軟らかいのですが、下半身の足さばきに男が出ます。
初めての女方ですから、仕方ないですね。

KAATで坂田金時の飛び六法を見たときから、
いつか鷹之助の弁慶が見たいと思っていたので、
「安宅」は楽しみにしていましたが、
まさか能で、ここまで本格的にやるとは思っていなくて、びっくりです。
故・片山幽雪師、九郎右衛門師に習い、
地謡がその九郎右衛門に味方玄、武田祥照というぜいたくさ!
いったい私は何を見に来たのかわからなくなりそうでした。

女方、能、と自分の土俵ではないところでの作品が2つ続き、
最後に踊った「玉屋」でようやく本領発揮。
様々な情景をしなやかに、楽しそうに、リラックスして踊る姿に、
この人は本当に踊りが上手いな、と感心至極。

妹の渡邊愛子も「雨の五郎」で初めての立役に挑戦しています。

女方として人気・実力ともゆるぎない地位にある尾上菊之助が、
立役の主役、それも、
女方がよく兼ねる、白塗りの優男の役ではなく、
荒ぶる武士を演じるというので、
歌舞伎ファンの間では始まる前から話題沸騰していたこの公演。

菊之助は非常に丁寧に、初役の知盛を演じていました。
それは好感が持てましたし、やはり力がある、と感じましたが、
やっぱりニンではないな、とも思いました。
「ニン」というのは、
「当たり役」「その役にピッタリ」という意味です。
その人の醸し出す雰囲気と、役が求めるものとがピッタリ一致するとき、
役者は自分の持てる以上の力を発揮します。
逆に
ニンでないと、
一生懸命務めているのに、それほどのインパクトが感じられない、
そういうことがままあるものです。

わかりやすくいえば、
お姫様なのにどこか庶民っぽい匂いがするとか、
逆に、貴公子の役なのに気品がない、とか、そんな感じです。

菊之助の平知盛は「荒ぶる軍神」というよりも、「平家の貴公子」でした。
彼は、平敦盛役をやったことがありますが、
同じ平氏で、同じ源平の合戦で敗れた者でも、
敦盛は16歳、笛を吹くのが好きな紅顔の美少年であり、戦も初陣です。
こういう役は、女方を主に演じる菊之助にとってもニン。
気品といい、端正なたたずまいと言い、絶品でした。

しかし知盛は、手練れの猛者。
背中に矢を受け、額から血を流しながらも、
バッタバッタと源氏の兵を切り刻んでいきます。
これまで、と観念しながらも、
「生き変わ~り、死に変わ~り」永遠に源氏を恨み続けるぞ、と
怖ろしい形相で義経に挑みかかる男です。
最後は自分の首を誰にも渡すまいと、
重くて大きい碇を抱いて、まっさかさまに海へとダイブする男です。
負け戦だったとしても、それは時の運。
軍神としてのでっかさ、有無を言わせぬ恐ろしさには、
敵も味方も震え上がったことでしょう。

菊之助には、そのような、いわば大魔神のような恐ろしさがなかった。
でも、だからこそ、
必死で義経に安徳天皇の行く末を頼むところが、
敗戦の将として等身大の人間として浮かび上がったように思います。

彼らは身を賭して戦う。
何のために?
「玉体」を護持するために。

「玉体」とは何でしょう?

天皇のことです。
ここでは平清盛の孫である安徳天皇のために、
みんな命を落としていくのです。
そして、「平氏は負けた。が、天皇のことは引き受けた」と
安徳天皇を抱いて去る義経もまた、
すでに兄・頼朝から追われる身。
次は自分が討たれる番なのでした。

一兵士として死んでいく知盛に対し、
今や戦況が傾いていく義経は、自らの運命を予感し、
同じもののふとしての共感と憂いを瞳の内に浮かべつつ
退場していきます。
しんがりの弁慶も、
死んでいった知盛に、弔いと敬意の法螺貝を吹くのです。

千秋楽、
皇太子殿下が愛子様と一緒にご覧になりました。
平氏の知盛に守られていた安徳天皇が、
今は義経の手のあって守られている。
幼い安徳天皇はこれまで守ってくれていた知盛に「義経を恨むな」と言い、
その知盛が死ぬ覚悟であると知って「さらば」と引導を渡します。
殿下は安徳天皇の直接の子孫ではありませんが、
それでも「天皇家」という長い歴史の帯の中に生きていらっしゃる以上、
まったく無関係にご覧にはなれないのではないでしょうか。

天皇だけではありません。
歌舞伎には、「統べる者、上に立つ者」はいかにあるべきか、
いかにあってほしいと庶民は思っているのかが切実に描かれています。

自分を守るために、自分の兵が命を落としていく、
兵だけではない、乳母や官女も次々と。

安徳天皇の覚悟の御製を聞いて官女たちが
一人、また一人と覚悟の入水する様は、
グアム島のバンザイクリフのようでもあり、
沖縄のそれのようでもありました。

70年間戦争のなかったことを手放しでは喜べず、
「平和ボケ」などとおっしゃる方もいるようですが、
本当に血を流さなくても、戦争の辛さ、哀れさ、虚しさを感じられるのが、
エンターテインメントのよさです。

今回、中村梅枝がお柳(実は)典侍(すけ)の局を演じましたが、
梅枝の典侍の局には威厳があって、
銀平(実は知盛)の妻・お柳の場面に比べ、
典侍の局になった途端、知盛よりも身分の高い女官であることが見てとれて、
非常に素晴らしかったと思います。

一座皆、よく通る声でセリフを理解しやすく、
小さいお子さんも物語にぐっと惹きつけられ集中して観ていました。

勇猛果敢な武士・知盛の潔さを描いた作品ですが、
いばりちらしてすぐに武力に頼ろうとする不埒な武士に対しては、
多くの合戦で名を上げた知盛が
「武(さむらい)という時は戈(ほこ)を止(とど)めると書きます」と
武士の役目は戦を起こさないこと、いたずらに刀を抜きません、と
と諭す場面もあります。

戦後70年となる今年の夏、
一ヶ月にわたり、たくさんの日本人が初めて「碇知盛」を観た。
そのことが、きっと日本の力になると、私は信じています。

大阪松竹座夜の部は、「絵本合法衢(えほんがっぽうつじ)」の通しです。
なかなか上演されない演目で、
平成4年に孝夫時代の仁左衛門で上演された後、
平成23年3月に国立劇場でかかったのですが、
あの3.11、東日本大震災のために途中で中止となりました。
私もチケットを払い戻しています。
翌24年に仕切り直しでもう一度公演、ようやく観られました。

そのときは、
筋を追うのがとても大変でした。
仁左衛門が「左枝大学之助」と「太平次」の二役をやるんですが、
なんでこの二役をいっしょにやるのかもストンと腑に落ちていなかったし、
頭のなかに「なぜ」がいつもあって、
演目を楽しめるところまでいっていなかったというのが本当のところです。
唯一印象的だったのは、
「大和の倉狩峠」=「奈良の暗峠」にぽつんとある家での場面。
太平次の女房お道が、最後に夫の悪事に見切りをつけて裏切るところでした。

それに比べて、
今回はなんと「悪の華」を楽しめたことか!
自分の心持の違いでしょうか。
今回は仁左衛門丈が監修しています。

まず第一幕第一場、
燈籠の陰から笠をかぶった武士が出てきたその瞬間、
あ、これが大学之助だ、悪いヤツの親玉だ!とわかる、その大きさ!

先月の「新薄雪物語」、「花見」の場でも、
仁左衛門は秋月大学という悪者の役で、笠をかぶって出てきます。
そのときより、さらにダークな空気を身にまとっていた感あり。

この大学、敵だけでなく味方までも、
用済みだったり気に入らなかったりするとバッサバッサと斬りまくる。
文字通り、問答無用。
生殺与奪、オレが決める!の悪の権化です。

その大きさに比べ、
太平治は本当にこすっからいヤツで、
仁左衛門はその太平次を、背中を丸め、首をすくめ、軽い調子で演じる。
反りかえり、肘を張って大きさを見せる大学之助とは、別人です。
早口で、ときにコメディタッチに、ときに色っぽく。
「ワルだね~」とこちらもニヤっとしてしまう、ちょっと憎めないヤツ。
と思いきや、
殺し場では容赦ない。背筋が寒くなります。

とりわけ倉狩峠で
お米(中村米吉)と孫七(中村隼人)を串刺しにするところ!

太平次の留守中、
味方と思っていた太平次が敵方の人間と知った二人と
戻ってきた太平次との息を呑むやりとり。
太平次の殺気がものすごい。
手に汗握る緊張感です。
そして、最後は串刺し。スローモーションで反り返り崩れていく美男美女と
仁王立ちの殺人者の構図は、
一枚の錦絵として妖しく、美しく、圧倒的なパワーを放つ。

米吉の断末魔の叫び声と、
白塗りの顔にほつれ髪がかかる隼人の死に顔の美しさは絶品で、
いつまでも、目に、耳に、残ります。

一度観たはずなんですが、
最後はいったいどうなったか、
悪の権化、大学之助は因果応報で誅伐されるのか????

・・・ここがミソ!

確かに大学之助、一太刀浴びたことは浴びたのですが、
最後の最後まで見せずに、
「本日は、これ~ぎ~り~」の切口上で、強制終了!

だから歌舞伎は面白い、のでありました!

この通しでは、一幕から三幕まで、仁左衛門出ずっぱりです。
体力的に、かなり大変ですので、
この先何回できることか。
ご覧になれる方は、ぜひ今月、松竹座へお越しください。
「悪」なのに、「カッコいい」。

この公演中に、片岡仁左衛門は人間国宝に認定されました。
歌舞伎の真骨頂を、お楽しみくださいませ。

大阪の松竹座昼の部で、「ぢいさんばあさん」を幕見しました。
歌舞伎座のさよなら公演で観た片岡仁左衛門x坂東玉三郎コンビでの感動があまりに強すぎて、
そのとき以来、ほかの配役でこの演目が上演されても、
食指が動かず観劇を故意に避けてきました。

久々に片岡仁左衛門の伊織に会える!

期待いっぱいに席に着きました。

武士の夫婦としてはありえないくらい、
あけっぴろげにラブラブな二人を見るにつけ、
この二人の行く末を知っているだけに3分もたたないうちに涙腺が熱くなり・・・。

京都に単身赴任する夫・伊織に
面と向かって「私、さみしい」と言えない若妻るん(中村時蔵)が
抱っこした生まれたばかりの乳飲み子に
「お父様は遠いところにいくんですよ。さみしいけれど、二人でお留守番しましょうね」と
自分に言い聞かせるように言う場面。

それを聞いた伊織が庭に降り、
るんに背中を向けながら桜の木を抱いて、
「来年の春には満開の桜を見せてくれよ、きっと帰ってくるから」と
本当は背中を向けたるんに向けての「待っててくれよ」を口にする。

それが帰ってこれない・・・と、知ってる身の上としては
前半も前半、最初のところですでに滂沱。

ところが。

新しい発見もありました。
ラブラブな二人の関係に何かを水を差す役まわりの下嶋の人となりです。

別れを惜しむ伊織夫婦にいとまを与えまいと、
一緒に京都に赴任するのというのに、
もっと碁につきあえとせがむ下嶋(中村歌六)。
「俺なんか、うるさい女房と離れられてかえってさっぱりする」というセリフが
非常に胸にささる。
同じ境遇でありながら、夫の単身赴任をそれほど寂しがってくれない奥方との
寒々しい下嶋の家庭が目に浮かぶようです。

京都に行っても
自分から30両という大金を借りて名刀を手に入れながら、
その名刀のお披露目の宴席に自分を呼ばない伊織に
「それは筋が違うだろう」はごもっとも。
その上「お前はオレのことが嫌いなんだ」と言うと
「なーんだ、知っていたのか。実はそうなんだ」みたいに
あっさり「お前が嫌い」を告白する伊織の天然ぶり!

正直すぎるところを「かわいい」「そこがいいところ」と好かれる伊織と、
正論を言っても「しつこい」「やなやつ」と疎まれる下嶋。

今までイヤな奴だと思っていた下嶋が、
急にかわいそうになってきました。
そう、「眠りの森の美女」で王女誕生の祝宴にハブられた
魔女マレフィセントを思い出した。

仁左衛門による伊織の人物造形は、
単なる「いい人」ではありません。
「昔はヤンチャしてた短気な男だったが、美しく優しい女と出会って身を改め、
 子どもも生まれていよいよこの幸せな生活を守りたいと、
 争いごとを好まぬ男になった。
 でも、あまりにネチネチと非をあげつらわれ、思わず昔のくせが出て・・・」

「事を成し」てしまった後の伊織の目は、
江戸でるんに目㞍を下げていた伊織とは別人のように鋭く、
そして自分のやってしまったことへの後悔で漏らす
「うううううううううううう!」という叫びのならぬ叫びは、
満場に響き渡り、伊織の無念さが観客の胸に突き刺さります。

ティボルトを刺してしまったロミオのような感じですね。

後半はほのぼのとした中に、
やはり「坊は・・・」のところで感涙。
それとともに、
伊織単身赴任のもとをつくってしまったるんの弟・久右衛門(中村錦之助)が
姉夫婦が戻るまで家を守り通してきたその思いや
久右衛門の死後も父の遺言に従いそのまま家を守ってきた若い息子夫婦が
いよいよ家を明け渡すときの心情が
中村隼人と中村米吉によって鮮やかに語られます。

仮の住まいとはいえ、大切に住まってきた家を去るさびしさを吐露していた若妻が
最後に
「これから(新居で)私たち二人の本当の生活が始まるのですね」と
高らかに宣言するところが、今回はツボでした。
いつ元の家主がお帰りになってもいいようにと言い付けられ、
古い家だけどリフォームもできず、おそらくは置物の位置も変えず、
完璧な掃除を心がけた若妻のストレスとか、
もういろんなこと考えてしまいました。

ほのぼのとして、思わず顔がほころんでしまい、
そして涙が止まらない、
人の心に寄り添ったやさしい物語です。

詳しくはこちら

歌舞伎座夜の部の「牡丹燈籠」は、私が大好きな演目です。
ただ、
今回は少しお話を端折ってつくられています。拙講座
「女性の視点で読み直す歌舞伎」⑨で「牡丹燈籠」を扱ったときの
サブタイトルに「3組の男女が織りなす‘愛と死の輪舞’」と掲げたように、
このお話にはお露と新三郎、お峰と伴蔵、お国と源次郎という
3組の男女が出てきます。
でも今回、源次郎は出てこない。お国は出てくるけれど、
源次郎とのお話を封印しているので、ほんとのチョイ役です。
私は3組の男女のなかでも、特にお国の生き方が好きなので、
そこを端折られるのはとっても残念なのですが、
それはそれとして、今回の「牡丹燈籠」も
玉三郎のお峰と中車の伴蔵の二人の関係にぐっと絞って
見ごたえがありました。

五月の明治座でも思いましたが、
中車が歌舞伎役者として非常に力をつけてきた。
香川照之という俳優のキャリアを生かすだけの基礎を
ようやく積み重ねつつあると感じます。

なにより、声が通る。これ、歌舞伎では本当に大切なことなんです。
「一声、二顔、三姿」ですからね。昔から。
オペラと同じくらい、「声のいい人が一番ハンサムで、ヒーロー」と
観客には聞こえるのです。これ、ほんと。

歌舞伎に出始めたころの中車は、すぐに声が枯れてしまい、
脇役のほうがいい声を出していて、非常にアンバランスなことが多かった。
今、中車の声は劇場の隅々にまできちんと通ります。
重要な役の人間として、感知される声です。

「牡丹燈籠」のような、江戸の庶民の市井を扱った
いわゆる「世話物」と呼ばれるジャンルでは、
中車は自分の居場所を確立したと確信しました。

ただ様式美がウェイトを占める時代物では、
まだ難しいかもしれません。
今回「牡丹燈籠」の後半が大幅にカットされ、
伴蔵がお峰を殺す場面が「幸手堤」から「関口屋内」つまり、
夜の土手に妻をだまして連れ出し、夫が糟糠の妻を故意に殺す、という凄惨な殺し場から
夫婦喧嘩の末、幽霊のお露と間違えて殺し、気がつくと改心してわびる、という
「伴蔵そんなに悪い奴じゃないじゃん」的な幕切れとなったのには、
「幸手堤の殺し場」という、錦絵のような殺人事件の「様式美」が
中車にはまだ手に負えない、と考えられたからかもしれない、と
私は想像します。

そのあたりが、歌舞伎の難しいところであり、見どころでもあるのです。

今回の「牡丹燈籠」をご覧になった方は、
シネマ歌舞伎に「牡丹燈籠」がかかったら、ぜひ見比べていただきたい。
同じ玉三郎さんを相手に、
片岡仁左衛門さんがどんな伴蔵を演ずるか、
幸手堤のおぞましくも美しい場面とはどんなものなのか、そして
お国と源次郎の恋物語もコクがあります。

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