仲野マリの歌舞伎ビギナーズガイド

一度は観てみたい、でも敷居が高くてちょっと尻込み。 そんなあなたに歌舞伎の魅力をわかりやすくお伝えします。 古いからいい、ではなく現代に通じるものがあるからこそ 歌舞伎は400年を生き続けている。 今の私たち、とくに女性の視点を大切にお話をしていきます。

講座「女性の視点で読み直す歌舞伎」を
東京・東銀座のGINZA楽・学倶楽部で開いています。
歌舞伎座の隣りのビル。
窓から歌舞伎座のワクワクを感じながらのひとときをどうぞ!
これまでの講座内容については、http://www.gamzatti.com/archives/kabukilecture.html
GINZA楽・学倶楽部についてはhttp://ginza-rakugaku.com/をご覧ください。

2016年04月

4月から衛星劇場HPでコラム「歌舞伎彩歌」の執筆を担当させていただいています。
これまでに
「あの場面、この場面」というタイトルで
「一條大蔵譚」
「三人吉三」
「棒しばり」
をご紹介しました。

これら放送される舞台に関連したものではなく、
広く歌舞伎に関わるトピックスについて
「ちょっと幕間」という名前で月に1回書かせていただきます。

第一回は「幕間(まくあい」について。
http://www.eigeki.com/special/column/kabukisaika_n04

ぜひお立ち寄りください。

衛星劇場歌舞伎コラム「歌舞伎彩歌」も、3回目になりました。
今回は、狂言をもとにした「棒しばり」です。
http://www.eigeki.com/special/column/kabukisaika_n03

亡くなった勘三郎さんと三津五郎さんの「棒しばり」は、
シネマ歌舞伎にもなっていますね。
人気の演目です。

「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」は、富の市(とみのいち)という盲目の男が、
悪事を悪事とも思わず盗み、騙り、押し入り、殺人など次々とやってのけ、
検校という、盲人としての最高位につく話です。

盲目の人たちの職業(概して按摩と三味線弾き)を守るため、
当道座という互助組合があり、その地位は細分化され、
検校>別当>勾当>座頭など、厳然としたヒエラルキーがありました。
検校は地位も上なら金も相当ため込んで、金貸しもしていました。
検校になるということは、
一介の盲人としてだけでなく、健常者と比較しても尋常でない出世です。
しかし富の市は、自分の面倒を見てくれていた不知火検校夫婦を殺すことで、
その後釜についたのでした。

この不知火検校、今回の歌舞伎は宇野信夫作。
私は井上ひさし原作の舞台を蜷川幸雄演出・古田新太主演と、
栗山民也演出・野村萬斎主演でそれぞれ観ています。(こちらは「藪原検校」)

井上版は、富の市と同じ盲目で検校まで上り詰めた人間として、
塙保己一(はなわ・ほきいち=国学者。教科書に出てくる人)を登場させています。
悪事ではなく、本当に努力して上り詰めた人を富の市のリフレクションとして立てたことで、
富の市の悪行はさらに鮮明になり、
またグロさもエロさも容赦ないほどリアルで、ラストシーンはもう…
しばらくお蕎麦は食べられませんでした。

宇野版は、歌舞伎ならではのお約束や様式で表現しますから、
殺人も暴行も、井上版を知る者にはかなりあっさりめに感じます。
でも、そこにねっとりした味を加える松本幸四郎!
さすがの役者ぶりで座を引っ張ります。

旗本の細君浪江(中村魁春。若々しく可愛らしかった!)をモノにする雷雨の夜のシーンは、
さながら夫と舅の棺桶の前のアン王女を口説き落とすリチャード三世。
あの場面、そうそう納得させてくれる役者はいませんが、
一度幸四郎で観てみたいと思わせてくれました。

そして一見根っからの悪党のようでありながら、本当は女の真心を求めていること、
しかしそんなものはない、万事はカネのこの世に絶望して生きていることを、
表情やセリフの言い回しのほんの一瞬で表しています。

お縄になって野次馬に罵倒されると
太く思いっきり生きた自分に胸を張り、晴眼者の小心を嗤い、引っ立てられて幕。

「盲人はかわいそう」という見下した同情心を木っ端微塵に砕く富の市の
したたかすぎる生き方はもちろん褒められたものではありませんが、
盲人だからといって世間様をはばかるようにして生きなければならない道理はない!と
堂々と人生を闊歩する姿には、
さまざまなコンプレックスからうつむき背中を丸くして自信をなくしている人々には
風穴を開けるようなエネルギーが感じられるのではないでしょうか。

富の市の相棒となる生首の次郎(検校となった後は手引の幸吉)役で、
市川染五郎がやくざな男を好演。
私は股旅ものとか、ちょっと斜に構えた日陰者を演じる染五郎が大好きです。


京都劇場で、市川海老蔵特別公演「源氏物語 第二章」が始まっています。
2014年の第一章がとても好きだった私。
その感想はこちらこちらをご覧ください。

とにかく、この「源氏物語」は日本文化の宝。
これをめぐって1000年の間、
もともと日本の伝統芸能自体が互いのジャンルを刺激し合いながら、
同じテーマをそれぞれ掘り下げ切磋琢磨、
らせん状に質を向上しつつ特性を際立たせて今日まで来ています。
1000年以上前に成立した長編小説が、
能になり、舞になり、歌になり、歌舞伎になり、漫画になり、映画になり宝塚になり…。
そして日本を飛び出しオペラにだってなれる。
「源氏物語 第一章」は、そうした原作のパワーと
同じ作品を様々な視点と様式で語れる日本文化の厚みを見て取れる舞台でした。
主眼となった章は「葵上」「六条御息所」「夕顔」です。

今回は「朧月夜より須磨・明石まで」。
休憩をはさんで前半は宮中の権力争いに巻き込まれる「朧月夜」、
後半はそのトラブルから身を避けるように出た「須磨・明石」となります。

パンフレットを読むとわかるのですが、
これは能の「須磨源氏」をもとに構成されています。
だから後半の「須磨・明石」で展開される能の舞の迫力は満点!
それに比べると、前半は展開がよく呑み込めないところがあります。

前半の意図は「オペラと歌舞伎の融合」で、
第一章でも活躍したアンソニー・ロスが「月影の騎士」となって美しいカウンターテナーの歌声を披露します。
おそらく源氏を照らす月となって彼の心情を語っているのでしょうが、
いかんせん、メロディの美しさはあれど歌詞の意味が入ってこない。
歌詞が重要な意味を持つからこそロビーに対訳が書かれた紙が置かれていたと思います。
でも手に取る人は少なかったし、
ヴィヴァルディやヘンデルなどの曲という先入観が先に立ち、
雰囲気づくりのBGMのように勘違いしてしまいがちです。
あとから読んでも源氏物語との接点は見出しにくいと感じました。

朧月夜や明石の君など、女性陣は光の君以上に寡黙で、
これは日本舞踊で見せる、という形をとったからだとは思いますが、
源氏物語そのものをよくご存じない方には
なんとなく美しさやはかなさを感じることはできても、
光の君や彼をめぐる女性たちの心情を立体的に理解するのは難しかったのではないでしょうか。

実は、このプロダクションで、
女性は大した意味を持っていないのです。
そこが第一章の「葵上」や「夕顔」とはまったく違う。
語られるのは、
「貴種の流れを汲むものの光と影」と「亡くなった父への贖罪と苦悩」であり、
海老蔵は「源氏物語」の中に
自分の生きざまを見出し、なんとか掘り下げようと試みていると見ました。

「源氏物語」のテーマは仏教的な無常観ともののあわれ。
海老蔵はそこにきっちりフォーカスしている。その点は高く評価します。
ただ、
「光源氏」といえば、やはり軽い感じのイケメンプレイボーイのイメージ。
それもイケメンで色気たっぷりの海老蔵がやるとなれば、
観客は「イケメンプレイボーイ」的側面に否が応でも期待します。
彼の野心と観客の期待がすれ違ってしまったところが、今回あるような気がします。

また、
今回は能の完成度に頼りすぎ、あるいは狂言方の茂山逸平演じる「世継の翁」に語りを集約させすぎるなど、
歌舞伎公演と名乗るにはあまりに消化不良だったことは否めません。
歌舞伎俳優は出ていても、「これぞ歌舞伎」の様式美やストーリー展開がなく、
「歌舞伎」を観にきた人は物足りなく思ったことでしょう。
たとえ日本の伝統芸能の集合体として見せるのであっても、
一つ一つの芸能を並べるのではなく、ここでなければできない化学反応がほしかった。

能の場面に匹敵するだけの歌舞伎の場面を構築すれば、
また違ったかな、とも思います。
六条御息所を歌舞伎俳優と能楽師とが二人で役を担ったように、
桐壺帝もまた、能楽師だけでなく、歌舞伎俳優がしっかりと演じればちがったはずで、
「須磨源氏」のみに集中し、前半は「朧月夜」ではなく「桐壺」などとしたほうが、
たとえ第一章とダブルところがあったとしても本当のテーマが浮き彫りになったのではないかと考えました。

今回の「第二章」は「第一章」ほど成功してはいないと思いますが、
「源氏物語」は格闘するには大きな相手で、
そこにフィールドを据え、片山九郎右衛門ほか名だたる名優たちに教えを乞う海老蔵には
アーティストとしての気概を感じました。

公演は16日まで、昼・夜同内容。京都駅ビル内の京都劇場です。
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