「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」は、富の市(とみのいち)という盲目の男が、
悪事を悪事とも思わず盗み、騙り、押し入り、殺人など次々とやってのけ、
検校という、盲人としての最高位につく話です。

盲目の人たちの職業(概して按摩と三味線弾き)を守るため、
当道座という互助組合があり、その地位は細分化され、
検校>別当>勾当>座頭など、厳然としたヒエラルキーがありました。
検校は地位も上なら金も相当ため込んで、金貸しもしていました。
検校になるということは、
一介の盲人としてだけでなく、健常者と比較しても尋常でない出世です。
しかし富の市は、自分の面倒を見てくれていた不知火検校夫婦を殺すことで、
その後釜についたのでした。

この不知火検校、今回の歌舞伎は宇野信夫作。
私は井上ひさし原作の舞台を蜷川幸雄演出・古田新太主演と、
栗山民也演出・野村萬斎主演でそれぞれ観ています。(こちらは「藪原検校」)

井上版は、富の市と同じ盲目で検校まで上り詰めた人間として、
塙保己一(はなわ・ほきいち=国学者。教科書に出てくる人)を登場させています。
悪事ではなく、本当に努力して上り詰めた人を富の市のリフレクションとして立てたことで、
富の市の悪行はさらに鮮明になり、
またグロさもエロさも容赦ないほどリアルで、ラストシーンはもう…
しばらくお蕎麦は食べられませんでした。

宇野版は、歌舞伎ならではのお約束や様式で表現しますから、
殺人も暴行も、井上版を知る者にはかなりあっさりめに感じます。
でも、そこにねっとりした味を加える松本幸四郎!
さすがの役者ぶりで座を引っ張ります。

旗本の細君浪江(中村魁春。若々しく可愛らしかった!)をモノにする雷雨の夜のシーンは、
さながら夫と舅の棺桶の前のアン王女を口説き落とすリチャード三世。
あの場面、そうそう納得させてくれる役者はいませんが、
一度幸四郎で観てみたいと思わせてくれました。

そして一見根っからの悪党のようでありながら、本当は女の真心を求めていること、
しかしそんなものはない、万事はカネのこの世に絶望して生きていることを、
表情やセリフの言い回しのほんの一瞬で表しています。

お縄になって野次馬に罵倒されると
太く思いっきり生きた自分に胸を張り、晴眼者の小心を嗤い、引っ立てられて幕。

「盲人はかわいそう」という見下した同情心を木っ端微塵に砕く富の市の
したたかすぎる生き方はもちろん褒められたものではありませんが、
盲人だからといって世間様をはばかるようにして生きなければならない道理はない!と
堂々と人生を闊歩する姿には、
さまざまなコンプレックスからうつむき背中を丸くして自信をなくしている人々には
風穴を開けるようなエネルギーが感じられるのではないでしょうか。

富の市の相棒となる生首の次郎(検校となった後は手引の幸吉)役で、
市川染五郎がやくざな男を好演。
私は股旅ものとか、ちょっと斜に構えた日陰者を演じる染五郎が大好きです。