仲野マリの歌舞伎ビギナーズガイド

一度は観てみたい、でも敷居が高くてちょっと尻込み。 そんなあなたに歌舞伎の魅力をわかりやすくお伝えします。 古いからいい、ではなく現代に通じるものがあるからこそ 歌舞伎は400年を生き続けている。 今の私たち、とくに女性の視点を大切にお話をしていきます。

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東京・東銀座のGINZA楽・学倶楽部で開いています。
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窓から歌舞伎座のワクワクを感じながらのひとときをどうぞ!
これまでの講座内容については、http://www.gamzatti.com/archives/kabukilecture.html
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2015年03月

「寺子屋」は、
源蔵が道真(=菅丞相:かん・しょうじょう)の息子である菅秀才(かん・しゅうさい)を
我が子と偽ってかくまっている細々と営む山間の寺子屋でのお話です。

なぜ平安時代の人間のお話に寺子屋なのか、については、
「菅原道真の時代に寺子屋はあるか?」をお読みください。

また、
どうしてかくまっているのか、など前段のお話は、(3)の「筆法伝授」をお読みください。

このお話は、詳しくあらすじを書きません。

なぜなら、サスペンスだから。

ネタバレしたら、つまらないから。

何度も観ている歌舞伎ファンならともかくも、
歌舞伎ビギナーズ、
すべてわかってしまったら
たった一度の「初めての衝撃」がなくなってしまいますから。

「菅原道真の時代に寺子屋はあるか?」にも書きましたが、

「京都殺人案内・山間の塾殺人事件~元エリート校教師、新入生を殺す
やむにやまれぬ子殺しの理由と衝撃のラスト! せまじきものは宮仕え」

みたいなお話です。
ちょうど2時間ドラマ1本見ると思ってください。

今回は終盤、
源蔵(尾上松緑)の「殺気」がすごかった。

まずは、
寺入り(新しく入塾)してきた寺子(てらこ・生徒)小太郎を迎えに来た母親(片岡孝太郎)と。

隙あらば、と孝太郎に背後からにじり寄る松緑のすり足。
何も感じていないような顔をして、体中をセンサーにする孝太郎。
まるで武士と武士との一騎討ちを見るかのごとき緊張感に、
思わず息を詰めて目を見張る。
刀を振りかざした男が、文箱一つで立ち向かう女に一瞬たじろぐ、
そこに「戦い」のリアリティを見ました。

こうした命のやりとりの真っ最中に乱入してきたのが、
松王丸(市川染五郎)。
時平の手下であり、さっきまで自分たちを蹂躙していた松王丸の登場で、
源蔵は一騎討ちの興奮状態に凄まじい怨念も加わって、
凄まじい勢いで松王丸に飛びかかっていきます。
松王丸は、そんな源蔵を制しつつ、
大小二本の刀を源蔵の前に放り出し、自らのホールドアップを伝え、
とにかく話を聞いてくれ、と源蔵にひれ伏す。
それでも訳がわからない源蔵は、
いつでも松王丸を討ち取れるよう、腰をうかして膝をつき、
右手に持った刀をまっすぐに立てて持って臨戦態勢。

しかし松王丸の述懐を聞くうち、
ある事実が絶対であると悟ったときに、
源蔵松緑は、全身の力を抜き、刀を置き、
たすき掛けにした紐を肩からほどき、
居ずまいを正して正座するのです。

源蔵も松王丸も、
主であって主と言われぬ菅原道真に対し、
不忠者と烙印を押された忠義者同士。
いずれも「不忠者ではない」証を立てんがため、
何の罪もない子どもが犠牲になる。
ラストシーンは、
殺した夫婦が右に、殺された夫婦が左に、
それによって助かった親子が頂点に立って幕となります。

「清廉潔白」な菅原道真を讃える物語は、
彼の「非の打ちどころのなさ」を守るために、
どれだけの人々が不幸になったかを観客の胸に突き刺して終わります。

つまり、
せまじきものは、宮仕え。
天神様の話のようでいて、しわ寄せを食らうしもじもの、弱者の話なのであります。

「菅原伝授手習鑑」昼の部の「筆法伝授」は、
菅原道真が政敵・藤原時平(「しへい」と読む)によって陥れられ、
道真自身は大宰府に流される途中での暗殺されそうになり、
家族も命を狙われる、という流れの中で起きるお話です。

学者出身で清廉潔白、追い落としの糸口がなかなか見つからない道真に
降ってわいた「菅公養女、親王と駆け落ち!」の大スキャンダル!

時平派はここぞとばかり
「菅公はあんな善人ぶってますが、娘を親王の嫁にして親王を帝位につけ、
自分が朝廷を支配するつもりですぞ」と讒訴します。

「大臣の菅原道真、冤罪で逮捕、護送中に暗殺する計画が進行! 
 内部に裏切り者も発生。家族にも命の危険が!
 菅原氏は暗殺を免れるのか?
 そのとき、忠臣ドライバー・梅王丸は? 解雇された源蔵は?」
…みたいな
今で言うと、永田町近辺を舞台にした社会派サスペンス&アクション、
WOWOWのドラマWとかになりそうな話です。

ところが、その緊迫感を外に据えた上で、
「筆法伝授」は最終場面まで、非常に動きの少ないお話。
どちらかというと、けっこう地味めです。

でも、
人間の心理がとても正直に描かれていて、
何度見ても感動するし、
ラストに至る筋の運びにはいつも感心します。

あまり上演されない場面ですが、
人気の「寺子屋」の前段として、あらすじは押さえておきたいところ。
少し詳しくご紹介しますね。

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外で渦巻く陰謀の嵐から隔絶されたかのように、
菅原道真の邸宅では平安王朝的なゆったりとした時間が流れています。

政治家としてではなく、
書の達人としての菅原道真(片岡仁左衛門)が
奥義を継承する者を選ぼうとしているのです。
そうした夫の心の平安を乱すまいと、
妻・園生の前(中村魁春)は、娘の失態をまだ夫に知らせていません。

そこへ、
かつての一番弟子・武部源蔵(市川染五郎)が
久方ぶりに菅原邸を訪れます。

武部源蔵は、道真の愛弟子だったのですが、
ご法度の社内恋愛をしたため、
破門されてしまいました。

元主人に呼び戻された源蔵が、
ようやく破門が解かれるかと喜びいさんで妻の戸浪(中村梅枝)とともに駆けつけます。

これをよく思わないのが、先輩で現在の一番弟子・稀世(まれよ)(市村橘太郎)。
何かと難くせつけて、
どうにか源蔵を遠ざけようと必死になります。
(稀世は、俗物だけどパタリロ的外見で憎めないキャラ。
あまり動きのない場面の多い中、稀世のコミカルさが救いともなります。

破門され、辛苦を舐める生活をしながらも、源蔵の筆は健在でした。
腕を認められてついに「筆法伝授」!
後継者としてお墨付きをもらえることに。
ところが、
破門は依然解かれないという不可解な目に遭います。

「伝授は伝授、破門は破門」
道真さん、カタすぎ。

そうなんです、
この「カタすぎ」こそが、すべてのキモだ、と私は思います。

日本人は、清廉潔白が好きですよね。
法は破ってはいけない、人に迷惑はかけていけない、
自分の家族だけを贔屓してはいけない、友だちだからと手加減してはいけない。
自分が正しいのにそれが通らないからといって暴れてはいけない。


道真さんは、その権化みたいな人です。

でも、
普通の人って、もっとウェットでしょ?

「俺とお前の仲」だったら、ちょっと手心加えてほしいこと、ありますよね?
見逃してもらいたいことも、ありますよね。

道真の奥さんの園生の前は、
「ほんとは一晩くらい泊めてあげたいんだけど、主人が・・・」と
自分ではどうにもならないことを詫びつつ、
「一目ご主人に会いたい」という戸浪の気持ちを汲んで、
自分の打掛の中に戸浪を隠して会わせようとします。

これが「情」ってもんでしょ。
でも、道真さんは、ガンとして会わない。
戸浪と、目も合わせようとしない。
戸浪、源蔵にまで八つ当たり。
「あなたはいいわよ、筆法伝授されたし、直接声もかけてもらったじゃない。
 私なんか、お顔をちょっと見ることさえできないのよ!」

源蔵は源蔵で必死です。
筆法伝授なんか、稀世でも誰でも他の人に譲っていいから、
何とか破門のほうを解いてくれ、と頼みます。

もともと源蔵、
同じ職場で働く戸浪を本気で好きになっただけ。
御主人を愛し、御主人にまじめに仕えていたんです。
でも、
戸浪を愛しちゃった。そのことだけで「破門」です。
法を破ったことは悪いけど、
その戸浪と、ちゃんと結婚してるんだし。
職場の女性かたっぱしから恋愛してたわけじゃないし。

―僕もけっこう苦労したんです。罰は受けました。
  だから、もう許してくれてもいいんじゃないですか?

必死で訴えるも、道真は聞き入れず、取りつく島もありません。
「早く帰れ」と言い置いて、御所に参内してしまいます。

辛いですよね。
どうして自分の愛情を、忠心を、わかってくれないのか。

でも、道真が「情に流されないくらい清い心」の持ち主だからこそ、
源蔵は、戸浪は、この人を主人とあがめて心から慕うわけです。

だから、
道真を演じるときは、
一方で感情を表に出さず、一切の隙や弱みを見せず、
誰にも指差されないよう困ってしまうほど律儀なのに、
奥底には人間の心の機微を見抜く洞察力と、
身分やら身なりやらにとらわれずに公平に慈愛を施す優しさを
持ち合わせていなくてはなりません。
それを、ほとんど何もしゃべらない中、居ずまいと少ない科白の中で表すのです。

今、その役ができるのは、片岡仁左衛門しかいません。
舞台が始まると精進潔斎、肉は一切食べないというくらい、この役に打ち込む仁左衛門。
まさに「神」!
こんなに融通の利かない場面を見せつけられながら、
それでも随所に「源蔵への愛」が感じられる。すごいです!

さて、
参内した御所で、道真は流罪を言い渡されます。
流罪先が決まるまでは、自宅に押しこめと決まり、戻される。
行きは輝くばかりの正装、
帰りは罪人としてすべてをはく奪され縛られての帰宅です。

冤罪であるけれど、道真は逃げたり反抗したりしません。
「勅諚は勅諚」、つまり
自分は何も悪いことはしていないけれど、
天皇のいうことは絶対であるから、という姿勢で全てを受け入れます。

法は破ってはいけない、人に迷惑はかけていけない、
自分の家族だけを贔屓してはいけない、友だちだからと手加減してはいけない。
自分が正しいのにそれが通らないからといって暴れてはいけない。
きっといつか、真実がわかるときがくるから。

警備の者に乱暴しようとする家来の梅王丸には
「抗ったら七生までも縁を切る」といって、制します。

おとなしく自宅へ押しこめられた道真。
事態を聞きつけ、
源蔵が警備の者がいる門前に戻ってきます。

「手出しをしたら、道真公の罪が重くなるぞ!」と言われると、
「私は破門されている、もう主人でも家来でもない!
 だから私が何かしても自分だけの責任だ!」と
道真に何の関係もないことを高らかに宣言して警備の者を斬り捨てます。

「伝授は伝授、破門は破門」で苦しんだ源蔵が、
その言葉を逆手にとってご奉公しようというのです。

そして、梅王丸の協力を得、
道真の屋敷から密かに道真の幼い息子・菅秀才(かん・しゅうさい)を連れ出し、
夫婦でかくまうことを決意するのでした。

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この「筆法伝授」を見てから「寺子屋」(今回は夜の部のラスト)を見ると、
自分の隠れ家を見つけられ、
「菅秀才の首をとってこい」と言われることで、
どんなに切羽詰まっているか、肌で感じ取れます。

もう、人を一人、それもいわば警察官を、殺しているんですから。


・・・それにしても、
実際の菅原道真、悲運の死を遂げてからがすごい。

すべてをはく奪されて大宰府に流されて、そこで不遇のうちに死ぬわけですが、
亡くなって20年の間に
元の右大臣に戻され改めて正一位贈られて、
さらに左大臣になって、太政大臣の位までなって。(すべて死後ですよ、念のため)
それでもおさまらず神様にされて、天満宮が作られて、
40年後には一條天皇が「天皇が敬うべき神社」の一つとして指定した。

日本中に事件事故が多発して、それが全部、道真の怨念だと思われたんでしょうね。

ほんとに祟りとしか思えないほど不幸や天変地異が続けざまに起き、
そして何をどうしても、そうした不幸が収まらなかったんですねー。

彼の歌の中に
「海ならず たたへる水の底までも  清き心は 月ぞてらさむ」
「心だに 誠の道にかなひなば いのらずとても 神や まもらむ」

というのがあります。

自分は何も悪いことをしていない。
「絶対に」です。
やましいことを一切していない。
そう言い切れる人ってすごいでしょ?

凡人、俗人は、自分と同じようにしか他人を測れないから、
人間がここまで「絶対に潔白」だなんて、「絶対ない」と思いますよね。

それだけに、後になって、
大変な人を陥れちゃったっていう気持ちで背筋がゾーってなったんでしょう。

このお話、
語り出すと止まらない!
それくらい深い! ・・・ので、

「本日は、これぎり~」

*歌舞伎では、ラストがチャンバラ(立ち廻り)で終わるとき、
 どちらが勝ったとかそういう決着まで見せず、
 唐突に役者が居住まいをただし、
 観客に向かって正座してあいさつして幕を閉じることがあります。
 そのときに「本日は、これぎり~」って言うんです。
 「切口上(きりこうじょう)」の一つのパターンです。

2014年の4月に京都南座で初演された
市川海老蔵主演の「源氏物語」
今年、全国で再演されています。

告知ムービーはこちらで観られますが、
短いし、サイト自体、あまり情報を載せていないので、
概要がわかりにくいかもしれません。

私が初演を見た時の感想が
ガムザッテイの感動おすそわけブログに書いてありますので、
関心のある方はそれをご覧ください。

能、歌舞伎、日本舞踊、生け花、そしてオペラ。
様々なものをミックスして、
そのミックスが「寄せ集め」ではなく、
とてつもない磁場を形成したと感じた初演。

これは再演されるのでは、と思ったとおり、
今年全国ツアーとあいなりました。

あのメンバーでこの値段は奇跡、と、
初演のときから言われていた点については、
能の重鎮片山九郎右衛門は今回も出演(日程によって出演なし)。
カウンターテナーで出演していたアンソニー・ロスだけは
今回帯同していない模様。

2/28の愛知県を皮切りに、
すでに11地区15公演を終えていて、
残すところ7地区10公演。
最終は4/9の東京オーチャードホールです。

詳しい日程と会場はこちらをごらんください。

歌舞伎の世界では、
坂東玉三郎や片岡愛之助など、
芸養子、そして本格的な養子となるケースがあります。
中村吉右衛門も、
松本幸四郎と兄弟ですが、
高麗屋に嫁いだ母が実家の播磨屋を継がせるため、
祖父の養子に出したのです。

このような特殊な世界でなくても、
世の中には
生みの親以外の親を持つ人はけっこういるのではないでしょうか。

生さぬ仲といえばシンデレラを代表とする「継子いじめ」が
物語の定番ではありますが、
実際はお互いに一生懸命愛そう、愛されようとする方が多いはず。
ただその一方で、
育ての親にどんなに愛されても、
養子には幾分の遠慮がついてまわるもの。
母親を早く亡くし継母に育てられた私の友人(男性)は、
小学生の頃から下着と靴下は自分で洗っていたといいます。



苅屋姫(中村壱太郎)は、菅丞相(片岡仁左衛門)の養女です。
桜丸夫婦の手引きで、
加茂堤で17歳の斎世親王と牛車の中で密会するという
世間知らずだからこその大胆行動が、
完全無比の菅丞相追い落としのための口実となり、
図らずも養父を流罪、お家断絶の危機にさらしてしまいます。

養父に合わせる顔のない苅屋姫は、
養父に一目会いたい、会って詫びたいと思いながらも
京の都の菅原邸には戻らず、
生みの親がいる河内の国の実家に身を寄せます。

「お母さん、どうしよう…」

実母は菅丞相の伯母・覚寿(片岡秀太郎)。
かくしゃくとした老女は、実の娘の犯した大失態を許しません。
養子とは、まず家の存続が最大の目的。
それなのに、養子に出した娘が、
甥の家を潰す原因になってしまった。
それも天下の右大臣の菅丞相の家を…。

申し訳が立たず苅屋姫を受け入れない実母覚寿に対し、
姉・立田の前(中村芝雀)は優しく妹をかくまい、なにくれとなく面倒をみます。
ところがその立田の前の夫は、
立身出世を望み、
流罪が決まった菅丞相を捨てて藤原時平に加担。
都から流される途中、汐待ちの間に覚寿の屋敷を訪れた菅丞相の
奪取暗殺計画を謀ります。
それを知った立田の前は、
何とか夫を思いとどまらせようとするのですが…。

「道明寺」とは、そんな物語です。

一番の見どころは、菅丞相を形どった「木彫りの人形」が、
菅丞相の代わりとなって立ち現れるところを、
人間である片岡仁左衛門がどう演じるか。

もともと「人形浄瑠璃」が原作なので、
人形ならなんでもないところですが、
歌舞伎では生身の人間が演じるわけで、
舞台上の登場人物と同じように観客も騙されるような、
高度な演技が求められます。

感情を持たない木偶人形と、
感情を押し殺した清廉かつ冷徹な政治家の顔と、
養女・苅屋姫を愛しみ別れに涙する養父の顔と、
様々な顔を見せ、
すべてを「菅丞相」という一つの人格に統合し、
さらに、やがて「天神様」となる人の神々しさを醸す。

現在、
この役ができるのは片岡仁左衛門だけ、と誰もが思っています。
彼が演じられなくなったら、
「道明寺」はもう上演できなくなるのでは?と危惧するほどに。

そんな今月昼の部。
千秋楽まであと数日です。
幕見も盛況で連日立ち見が出ています。
お時間が許せば、ぜひこの機会をお見逃しなく!

どちらかというと動きの少ない演目ですが、
緊張の続く中、
行方不明の立田の前探索で大活躍する奴宅内役の愛之助が、
人形浄瑠璃のチャリ場(コミカルな場面)の雰囲気をよく出して好演。
観客の重い空気をほぐしてくれます。

昼の「筆法伝授」、夜の「寺子屋」も大好きです!
これについては、また日を改めて。

「鳴神」も、「矢の根」と同じく歌舞伎十八番の1つです。
ですので、お上人のお話ですが、最後は「ぶっかえり」といって、
衣装がぱっと変わり、不動明王のような顔つきになります。
(衣装の早変わりに関しては、歌舞伎や日本舞踊の舞台では歴史があります。
最近のファッションショーなどで、同じような手法が取り入れられていました。)

ただ、
「矢の根」と違って、こちらはストーリーがある。
竜神を封印している鳴神上人が、
自分を籠絡して封印を解けと命じられて派遣された
雲絶間姫(くものたえまひめ)の色香に惑わされてしまうというもの。

見どころは
具合の悪くなった美女を介抱するため、
坊さんが女性の着物の袷から手を入れて
『ここか?ここか?』と胸などを揉みまくるところ
、です。

エロです。

その上、この美女、
「坊さんをオトして来い!」と命令されている女スパイ!


歌舞伎、荒事、坊さん、エロ。

歌舞伎とは「かぶく」こと。
建て前や常識なんか、クソくらえ!
坊さんだって女や酒には弱いだろ。それが人間でしょ。
「おい坊主、抹香臭い顔してオレに説教するな!」っていう
庶民の日ごろの気持ちの代弁です。
アナーキーで、艶笑談。
人気が出るはずです。

ただ、
単なる「庶民のうっぷん晴らしとして偉い人を揶揄する」だけには終わりません。
お上人様、
これまでは本当に真面目だったんです。
そんなお上人様が、酒と女淫に迷い始め、
ついには煩悩とともに生きる世俗を選び
「破戒だ破戒だ!」と叫ぶ、
そこに
「坊さんといっても人間」と共感させるカタルシスがあります。

そこが私は好きなのです、が…。

雲絶間姫の中村米吉は、美しいし堂々としていますが、
正直、エロすぎではないかと思いました。
上人の弟子2人に亡き夫との昔話をしながら、
「川を渡った時に裾をからげ・・・」みたいにスネを見せたりします。
そこが、最初から流し目チックっていうか、
「それそれ、裾あげますよ~、見せますからね~!」みたいに誘っていて、
お姫様というより、お姫様に化けた遊女みたいになってしまっていた。
ラスト近く、
「(上人を誘惑したのは)本心じゃなく、勅命だ(天皇に命令された)から許して」と謝るところ、
ここに説得力がなくなってしまっているのです。
前半はもうちょっとお上品にされたほうがよいかと思いました。
たしかに「わざと誘惑」に来てはいるんだけど、
世の中の悦楽を遮断して修行している坊さんたちにとって、
美女はそこにいるだけでまぶしいわけで、
そんな色目なんか使わなくても十分フラフラなはずでしょ。

女性にもあるじゃないですか。
若いイケメンがふいに上半身裸になっちゃうと、
別に他意もなければ「誘われている」わけでないのに、
なんかドキドキしてまぶしくて、目のやり場に困るような・・・
あんなサワヤカ系の「図らずも」のお色気がベースにあって、
プラスちょこっと「わざと」が欲しいところです。

松也の鳴神上人も同じことで、
高僧としての器が感じられませんでした。
姫が来る前から煩悩ありまくりの、
あるいは、煩悩を断ち切るために仏門に入ったばかり、みたいな
「いまだ悟らず」な状態に見えてしまった。

鳴神上人は、
朝廷が約束を破ったことに立腹して竜神を封じ込め、
世界中を日照りにしてしまうほどの力があります。
人間でありながら、すでに霊的な存在。

弟子たちを相手に姫がする物語を
聞くともなしに聞くうちにどんどん引き込まれていくところも、
最初は本当に「介抱しなきゃと思い」胸をさすり始めたところも、
ちょっとお籠りしていたふつうの男ではなく、
「あの膨らみは一体何?」「女性ってどんなものだったっけ」っていうくらい、
世俗と断絶した存在として、
それこそ「邪気のない」感じを大きく出してほしかった。

そうでなくては、
「手が何かにさわった」というくだりが
家庭教師相手の「青い体験」並みにしか見えない。

最後ぶっかえって六方踏んで、花道を駆けるところも、
「だましたなー!」の相手が姫であって、
朝廷という大きい相手、ひいては日本全体をゆるがそうという
恐ろしさには欠けました。

バレエなどでもそうですが、
「そこに存在するだけで場を支配するオーラ」というものは
そうすぐに獲得できるものではありません。
何事も、最初は小さい一歩から。
次回に期待です。

三月花形歌舞伎について、詳細はこちらをどうぞ。

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