京都劇場で、市川海老蔵特別公演「源氏物語 第二章」が始まっています。
2014年の第一章がとても好きだった私。
その感想はこちらこちらをご覧ください。

とにかく、この「源氏物語」は日本文化の宝。
これをめぐって1000年の間、
もともと日本の伝統芸能自体が互いのジャンルを刺激し合いながら、
同じテーマをそれぞれ掘り下げ切磋琢磨、
らせん状に質を向上しつつ特性を際立たせて今日まで来ています。
1000年以上前に成立した長編小説が、
能になり、舞になり、歌になり、歌舞伎になり、漫画になり、映画になり宝塚になり…。
そして日本を飛び出しオペラにだってなれる。
「源氏物語 第一章」は、そうした原作のパワーと
同じ作品を様々な視点と様式で語れる日本文化の厚みを見て取れる舞台でした。
主眼となった章は「葵上」「六条御息所」「夕顔」です。

今回は「朧月夜より須磨・明石まで」。
休憩をはさんで前半は宮中の権力争いに巻き込まれる「朧月夜」、
後半はそのトラブルから身を避けるように出た「須磨・明石」となります。

パンフレットを読むとわかるのですが、
これは能の「須磨源氏」をもとに構成されています。
だから後半の「須磨・明石」で展開される能の舞の迫力は満点!
それに比べると、前半は展開がよく呑み込めないところがあります。

前半の意図は「オペラと歌舞伎の融合」で、
第一章でも活躍したアンソニー・ロスが「月影の騎士」となって美しいカウンターテナーの歌声を披露します。
おそらく源氏を照らす月となって彼の心情を語っているのでしょうが、
いかんせん、メロディの美しさはあれど歌詞の意味が入ってこない。
歌詞が重要な意味を持つからこそロビーに対訳が書かれた紙が置かれていたと思います。
でも手に取る人は少なかったし、
ヴィヴァルディやヘンデルなどの曲という先入観が先に立ち、
雰囲気づくりのBGMのように勘違いしてしまいがちです。
あとから読んでも源氏物語との接点は見出しにくいと感じました。

朧月夜や明石の君など、女性陣は光の君以上に寡黙で、
これは日本舞踊で見せる、という形をとったからだとは思いますが、
源氏物語そのものをよくご存じない方には
なんとなく美しさやはかなさを感じることはできても、
光の君や彼をめぐる女性たちの心情を立体的に理解するのは難しかったのではないでしょうか。

実は、このプロダクションで、
女性は大した意味を持っていないのです。
そこが第一章の「葵上」や「夕顔」とはまったく違う。
語られるのは、
「貴種の流れを汲むものの光と影」と「亡くなった父への贖罪と苦悩」であり、
海老蔵は「源氏物語」の中に
自分の生きざまを見出し、なんとか掘り下げようと試みていると見ました。

「源氏物語」のテーマは仏教的な無常観ともののあわれ。
海老蔵はそこにきっちりフォーカスしている。その点は高く評価します。
ただ、
「光源氏」といえば、やはり軽い感じのイケメンプレイボーイのイメージ。
それもイケメンで色気たっぷりの海老蔵がやるとなれば、
観客は「イケメンプレイボーイ」的側面に否が応でも期待します。
彼の野心と観客の期待がすれ違ってしまったところが、今回あるような気がします。

また、
今回は能の完成度に頼りすぎ、あるいは狂言方の茂山逸平演じる「世継の翁」に語りを集約させすぎるなど、
歌舞伎公演と名乗るにはあまりに消化不良だったことは否めません。
歌舞伎俳優は出ていても、「これぞ歌舞伎」の様式美やストーリー展開がなく、
「歌舞伎」を観にきた人は物足りなく思ったことでしょう。
たとえ日本の伝統芸能の集合体として見せるのであっても、
一つ一つの芸能を並べるのではなく、ここでなければできない化学反応がほしかった。

能の場面に匹敵するだけの歌舞伎の場面を構築すれば、
また違ったかな、とも思います。
六条御息所を歌舞伎俳優と能楽師とが二人で役を担ったように、
桐壺帝もまた、能楽師だけでなく、歌舞伎俳優がしっかりと演じればちがったはずで、
「須磨源氏」のみに集中し、前半は「朧月夜」ではなく「桐壺」などとしたほうが、
たとえ第一章とダブルところがあったとしても本当のテーマが浮き彫りになったのではないかと考えました。

今回の「第二章」は「第一章」ほど成功してはいないと思いますが、
「源氏物語」は格闘するには大きな相手で、
そこにフィールドを据え、片山九郎右衛門ほか名だたる名優たちに教えを乞う海老蔵には
アーティストとしての気概を感じました。

公演は16日まで、昼・夜同内容。京都駅ビル内の京都劇場です。
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